駒場の歴史5 第五回 蓮昌寺(妙吟山蓮昌寺)の開基と歴史

第五回 蓮昌寺(妙吟山蓮昌寺)の開基と歴史

今回から、駒場の聖地といえる蓮昌寺について報告したいと思います。

5月の11日(金)26代目ご住職である中島存常師から、蓮昌寺の歴史、寺宝、その他諸々のお話をいただきました。大変有意義な話や興味深いことが山ほどありましたので、紹介も一回では終わりません。他にも、再度、存常師から伺ったり確かめたい内容がありますので、それにより回数が増えていくかもしれません。当面は、「蓮昌寺の開基と歴史」「蓮昌寺の文化財」「24代住職と遊園地」など3回~4回を予定しています。

 

蓮昌寺の開山と略史

蓮昌寺の開山・開基は、慶長17年(1612年)二階堂右金吾尉資朝(にかいどううきんごのじょうすけとも)夫妻によります。二階堂資朝は、城主藤原氏直の小田原城の藩士で、天正18年の小田原城落城後、落ち延び、旧領であった文蔵村(現さいたま市南区文蔵3,4丁目)に落ちてきて、そこで百姓として13年ほど生活をしますが、日蓮宗に熱心で隣の芝村の臨済宗長徳寺に通っていたということです。日蓮宗と臨済宗ですので、宗派がちがいますが、ともに二階堂家からでていることなどから仲が良かったのではないかと思われます。

当時、駒場村には実相庵という庵の跡があり、そこに妙蓮・妙信と刻まれた一対の青色板石塔婆がありましたが、当時駒場村の領主であった荒川次郎九朗が、二階堂夫妻をそこに招きます。夫妻は、寺を建て、遁世し仏門に入ります。それが開基となります。寺の名前を妙吟山実相庵と号しました。時に慶長17年(1612年)でした。今の蓮昌寺は産業道路に面していますが、当時は細い道くらいはあったかもしれませんが、今のような立派な道はありませんでした。(産業道路の完成は、昭和37年(1962年)になります。)当時の浦和の中心は、玉蔵院あたりを中心とした浦和宿でしたので、かなりへんぴな所だったでしょう。蓮昌寺規模の寺院で、田舎の人口が少ない場所で、今のような寺観が維持されているうえに、基本的に後代から受け継がれた建物、植え込み類を含む静寂観に包まれた雰囲気を持ち続けているのは、歴代住職、特に中島家と檀家さんたちの功績といえます。

 

二階堂資朝は、住職にはなりませんでした。初代住職は、日蓮宗本山である池上本門寺より派遣された実相庵日清上人でした。その後20代あまりまでの住職までは、世襲されずに、住職はそのたびに池上本門寺から派遣されました。中島家が住職となってから、寺観が整えられます。昭和43年には、本堂が修復され、書院・庫裏が改築され、昭和47年にはすべての建物や門が完成され、ほぼ今の形となりますが、「ちようなけずり」の柱とけやきの大黒柱は創建時のままに使用されています。ちなみに、遊園地の開設は昭和52年となります。それについては、後にふれます。鐘堂わきの銀杏の木は、樹齢からみて、江戸時代からあったと見られますので、蓮昌寺の変遷をずっと見守っていたと思われます。

 

以上の開基当時のいきさつや様子については、江戸の文化・文政年間に昌平坂学問所地理局(今のお茶の水にある湯島の聖堂)で書かれた『新編武蔵風土記稿』にありますので引用しておきます。

 

蓮昌寺を見守ってきたイチョウの木と鐘楼

 

山門より本道を臨む

 

蓮昌寺本堂

 

新編武蔵風土記稿

 

蓮昌寺 日蓮宗、荏原郡池上本門寺末、妙吟山実相院ト号ス、開山開基トモニ二階堂氏ナリ、二階堂右衛門督資朝ハ小田原落城ノ後旧地タルニヨリテ郡内文蔵村ヘ落来リソコニ住スルコト十余年、其頃当所ハ荒川次郎九郎カ采邑タリ、コノ人資朝ニ縁アルヲモテ資朝夫妻ヲ当所ヘ招キ本丸トイフ地ニ居ラシム、シカルニ往古ヨリ爰ニ実相庵トイヘル庵ノ跡アリ、傍ニ天文七年十二月九日妙蓮、弘治三年四月九日妙信トアリシ古碑二基アリ、コレ何人ナルハ伝ヘサレトカカル仏道有縁ノ地ナレハ一寺ヲ建立ナサントテ資朝夫妻相共ニ遁世シテ仏門ニ入リ当寺ヲ草創シテ妙吟山蓮昌寺ト号セリ、コレ慶長十七年ノコトナリ、因リテ資朝ヲモテ開山開基トナセリト、コノコト郡中文蔵村ニモ伝ヘテ既ニ文書等ニモアレハタシカナルコトト知ラル、境内は、松杉繁茂シ殊ニ堅固ノ地ナレハ往古塁跡ナリシヲ二階堂氏ノ居地トナセシモ知ルヘカラス