駒場の歴史第六回 蓮昌寺2 私たちの当時の記憶の中の駒場と蓮昌寺

今回は、「蓮昌寺2」ですが、駒場が6戸30人の人口から、劇的な変化を始める昭和20年才年半の状況を主に書きます。

私は、現在70歳代中盤ですが、駒場に住むきっかけになったのは、太平洋戦争です。実家は東京都北区王子にあり、父親は魚屋を経営しておりました。戦争も終盤になり東京大空襲に襲われ生命に危険が及ぶようになり、疎開先として、別荘があった当時の浦和市瀬ヶ崎1丁目1番地に引っ越してきました。住所は、瀬ヶ崎ですが、駒場に接したところで、家族の一部が三上家の物置に住まわせてもらっていたこともあり、生活圏は駒場でした。そこで終戦を迎えます。父は昭和20年12月に招集されていますので、私が母親のお腹の中に居るときに入隊したことになります。ちなみに父親は満州に送られ、そのまま終戦でソ連の捕虜になり、バイカル湖のほとりまで送られ強制労働をさせられ、3年後の昭和23年に、舞鶴港に送還されました。葉書で連絡はついていたようで、瀬ヶ崎の家に突然帰って来たのをおぼろげながら覚えています。陸軍の軍服姿でした。瀬ヶ崎の家には王子に住んでいた数家族が集まっていたので、奥の八畳の一間が私ども一家の部屋でした。そこに四人の親子が身をよせていたわけです。台所や手洗い、風呂は一カ所で数家族が共同で使用していました。最大時には四家族が集まっていたので、賑やかですが、辛い生活でした。広い家があり、畑があっただけ恵まれていたのかもしれません。何より当時の駒場の地元の人々が親切に接してくれたことが、嬉しかったことを覚えています。

父親が復員し、生活も安定した昭和27年に現在の駒場1丁目25番(当時は駒場131番地)に、粗末な家を建て引っ越しました。六畳二間、台所、手作りの風呂がありました。燃料は薪と炭、石炭で、火をおこすのは子供の役割でした。結構辛かったのは、風呂に井戸水を汲んで焚くことでした。兄と押しつけあって兄弟喧嘩のもとになっていました。

その頃の駒場の人口は20戸あまり100人くらいかと思われます。1丁目25番付近を中心に、他地域からの移住者が住み始めてきました。移住の動機はいろいろありますが、私の家のように、都内に住んでいたのが戦争で焼け出され、戦後復興で、区画整理がされ、住むところが無くなってしまった人たちです。もうひとつは、地方では、職場が不足していましたが、首都圏では戦後復興で、工業化が進み、人手が足りない工場などに、職を求めて住み始めた人たちです。私の家は、王子で焼け出され、区画整理がされましたが、父親がシベリアに抑留されていましたので、権利を主張することなく家を失い、駒場に住居を移すことになった次第です。

そんな理由から当時の駒場は、20軒あまりの戸数の駒場は、空地が目立ち、その半分ほどが畑地として開発され、半分ほどが雑木林でした。

当時の子どもたちの遊びと言えば、雑木林で遊ぶしかありませんでした。しかし、他の地域の子どもができないことがありました。それが、蓮昌寺公園(当時の呼び名は「オテラ」でした。)での遊びです。畑か雑木林しか無いところで、広場が使える所は、都北学園(埼中  1938年に浦和高等短期大学として駒場在住の中野等氏が創立 現本太中学校)の庭か、蓮昌寺しかなく、自由に出入りを許してくれた蓮昌寺が定番の遊び場でした。当時は、今のようにおもちゃや模型などはありませんので、かくれんぼ、缶蹴り鬼、野球などあらゆることを工夫して遊びました。本堂周辺にも遊びに入るのを許されていて、本堂濡れ縁下の乾いた砂地にある蟻地獄の巣にアリを追い込んで蟻地獄を捕まえたりしていました。何より、私たちの大好きな野球の道具を買って下さったのが、当時のご住職であったのは、今でも忘れられないことです。それを考えると蓮昌寺は、単なる駒場にあるお寺ではなく、私たちの心の中に残った場所です。

今回は、写真があまり無く、話の中に出てくる都北学園(埼中)の正門の写真が見つかりましたので、掲載しておきます。

都北学園(埼中)の正門

都北学園(埼中)の正門

次回は、蓮昌寺の文化財等について書きます。