駒場の歴史・第一回:発祥

「駒場の歴史」の連載について、

今回から表記の題で、駒場の歴史や歴史的な文化財などについて、調査をして載せてみたいと思います。浦和や埼玉などの大きな地域の歴史や文化は記述されていますが、駒場自治会の地元である駒場やその文化については、それほど語られたものが多くありません。そこで、無いのなら調べて記述してしまえば良いと思い、調べてみました。大げさに言うと、駒場のルーツ探しみたいなものです。あわせて、なつかしい写真も載せてみたいと思っています。
ラインアップは、次のようなものを考えています。

  • 公文書に見える「駒場」藩政から市制への変化
  • 前耕地遺跡
  • 蓮昌寺
  • 太田資正(中世の駒場の支配者)

そろそろ、種がつきているのにお気づきでしょう。別な方向に広げて、駒場2丁目の大半を占める駒場サッカー場や、浦和レッズの起原などにも広げてみたいと思います。
こんな風に考えていますが、私の能力には限りがありますので、ぜひ、みなさまのお知恵をお借りしたいと願っております。また、内容的に甘い面もあるのは、笑って読みすごしていただきたいと思います。

風間栄四郎

 

 

今月から、「駒場」の歴史・文化について、10回余にわたって触れてみようと思います。また、古い駒場に関する写真も載せてみたいと思い、あちこち探しております。

現存する文書で「駒場」が確認できる最古の文書は元禄6年(1693年)の『会田落穂集』ですが、そのころには、すでに浦和の中に「駒場村」という集落があって、人が住んでいたことになります。

浦和は、宿場町として存在し、元禄のころ、いくつかの村を統一し、藩、郡とする動きがあり、駒場村は浦和に入ったものと思われます。このいきさつは次回に触れるとして、今回は、浦和の成り立ちから明らかにしてみようと思います。

 

浦和は「浦回」、「浦廻」、「浦曲」とも書かれ、「ウラマ」に近い発音だったようです。

「浦」は、湖岸・海岸・川岸などの水に近い所を意味します。

「和」は、丸い場所を指しますが、

それをを含めて調べると二つの説があるようです。

 

一つは、縄文期には東京湾の水が今の中山道ぐらいまで入りこみ、丸い「和」のように成っていたので最終的に「浦和」にしたようです。
もう一つは、東京湾の海では無くて、入間川の流域で水利が曲がりくねって丸い「和」のように成っていたので「浦和」としたという説です。
最初に「浦和」の名称が公式文書に確認できるのは、応永3年(1396年)に書かれた『大般若経』の奥書であることが確認されています。
そこに、当時(江戸中期)支配していた紀伊徳川家が鷹狩り場をつくりました。
大宮から浦和にわたる広い場所で、鷹狩り場ですので、いろいろな施設をつくりました。その時、狩りに必要な馬の牧場を作ったので「大牧」(現東浦和付近)と名付けたのが確認されています。それにしたがって、各地の地名をつけたと推察するとことができます。そうしますと、「駒場」は、馬に関する施設があったので、「駒場」とされたと見て良いのではないかと思います。

 

下は、1953年当時の駒場の遠景で、総合グラウンド野球場の東側から、グランド通り沿いに、駒場の方向を撮ったものです。画面の中央を天王川が横切り、左奥の松林の中に浦和ルーテル学院(当時は「聖望学院」)があります。

 

写真提供:学校法人浦和ルーテル学院「創立50周年記念誌」

市立高校方面からルーテル学院方面を望む

 

ルーテル学院から産業道路方面を望む

 

来月は、駒場が記載された文書について触れてみます。