駒場の歴史第九回 蓮昌寺その5

今回は、蓮昌寺の最終回で、蓮昌寺内の建物について、調べたことをお伝えします。

本堂

本堂は、基本的には、初期からほとんど形を変えていないようです。特徴的なのは、大屋根の頂上部(大棟)の部分に、もうひとつの屋根である越屋根がついていることです。越屋根は、今の建築でもお洒落でついたものがありますが、昔は普通の家ではついていませんでした。そもそもは、養蚕のために必要とされていたものですが、大地主や大商人の家など、富の象徴的要素としてつけるようになりました。蓮昌寺はそれだけ格が上のお寺だったといえます。

茅葺き屋根時代の蓮昌寺本堂

①茅葺き屋根時代の蓮昌寺本堂

2.現在の蓮昌寺本堂

2.現在の蓮昌寺本堂

①の写真は、茅葺き時代の写真ですので、かなり前のものだと思われます。少なくとも戦前だと言えます。茅葺きを辞めた理由は、お金が掛かるからです。あれだけの大屋根を萱で葺く為には、10年以上萱を貯めておかねばなりませんし、そのための萱の野原を準備しなければなりません。また、大勢の人手が必要になります。飛騨高山の茅葺き屋根や、観光地の茅葺きの家は、それなりのイベント化をして、全国から人を集めて行っています。一種の文化財保護運動化にして、啓蒙を図っているのでしょう。当然、ひとつのお寺で維持できるものではありません。直近の葺き替えが何時だったかわかりませんが、駒場の人々や檀家さんが総出で行われたのでしょう。
本堂の直近の改装は、昭和43年(1963年)に行われています。その前の改装は、天保11年(1840年)に行われていますので、そのときは写真のような茅葺きの本堂だったと思われます。当時の建築技術を考えると、かなり高度な技術を持った頭領が携わったと言えます。本堂内の主要な柱は、その当時のものです。昭和43年の改装では、主に外側に手が入れられています。当時を知っている方は、記憶にあると思いますが、いちばん外にぬれ縁がありましたが、それを全面的に囲って、外壁も囲い、床下には入れないようになりました。床下にもぐって遊んだ記憶のある方は残念に思う人もいるのではないでしょうか。日常院首もその一人で、床下で遊んだ話しでもりあがりました。でも、防犯と安全性を考えると今の形にならざるを得なかったので院首も決心をしたのでしょう。庫裏とその周辺の改装は、その3年後におこなわれています。昭和11年に、墓所を移転し、建物を改装した工事は昭和60年代の中期に一段落します。でも、今も昔も全体の蓮昌寺の印象は保っておりますので、ありがたいことだと思っています。

3.蓮昌寺正門(獅子門)

3.蓮昌寺正門(獅子門)

 

4.蓮昌寺山門

4.蓮昌寺山門

5.経塚稲荷

5.経塚稲荷

経塚稲荷

写真③にある獅子が守る正門を入り、④の山門をくぐって進み、左側の三番目に石の鳥居がある少し印象が違った建物(写真⑤)があります。これは「経塚稲荷」というれっきとした神社です。
お寺の中に神社があるのを不思議に思われる方もいるのではないかと思います。でも、このお寺の中に神社を置く形は、江戸時代から良くある形態です。京都の醍醐寺には「皇大神宮」、清水寺には「地主神社」、仁和寺には「九所明神」という風にいまでも存在しています。したがって、ごく普通のことのように思われますが、歴史の中で見ると、テレビのドキュメント風に言うと「壮絶な過去」を持った背景があります。蓮昌寺の「経塚稲荷」は、名前から想像できるとは思いますが、駒場サッカー場の西、産業道路を挟んだコマバハイツができる前は、あの地を「経塚」と読んでいました。何かが埋められている聖地的な場所と考えられていたようです。当時、一帯は蓮昌寺の領地です。そこで、経塚を守る意味で、神社を建てることになりました。それが「経塚稲荷」の発祥となります。時代としては、江戸時代と考えた方が自然です。その当時の規模は、そんなに大きなものではなく、今の鳥居を除いたくらいの大きさです。
ところで、江戸時代の蓮昌寺の規模はどのくらいだったでしょう。駒場のほぼ全域が蓮昌寺の領地だったと考えられます。というのは、三上家、武笠家、高橋家は、蓮昌寺の使用人で、領地を与えられて駒場地内に住み着いています。この三家の土地を合わせれば、駒場の大部分になります。もちろん、明治政府の地租改正を経ていますので、今の三家の土地は大幅に減少していますし、それぞれの家の世代が変わっていますので、そのたびに相続税がかかりますので、半分くらいになります。不動産業に転身してマンションでも建てて会社化すれば土地は守れたと思いますが、駒場が住宅地として活用されたのは、そんなに古い話ではありません。蓮昌寺の土地に関しても、直接お寺に関連する土地は税金の優遇が得られますが、その他は普通に相続税を含めて税金を払いますので、土地は減っていきました。
そんなわけで、「前耕地遺跡」だった場所も売りに出され、さいたま市内の蓮昌寺に関係の深い人が買い取り、そこに、コマバハイツが作られます。当然のことながら、現コマバハイツの南側に隣接した「経塚稲荷」も移転せざるをえなくなり、今の所に移りました。
苦難は、それだけではありません。江戸時代中期までは、神道と仏教は共存しておりましたが、江戸時代後期の国学が盛り上がって来た時代に、特に水戸学を中心として仏教の排斥の機運が起こります。明治時代に入ると欧米に追い付き追い越せの富国強兵が国家施策になります。そこで明治政府は、日本を「神国」だとする天皇家を中心とする国家思想を確立し、富国強兵の思想的裏付けとします。それが、行き着いた先は「神仏分離」さらには「廃仏毇釈」運動に続いていきます。「廃仏毇釈」運動の盛り上がりはすざましいものがあり、千葉県館山市の五百羅漢の首を落とされた所行や、伊勢神宮関係の100ヶ所の寺が廃寺に追い込まれています。3000人ほどの僧侶が強制的に還俗させられた県もあります。埼玉県内でも大きなお寺が廃寺にされています。蓮昌寺も危機にさらされながらも、守られていたのは、この「経塚稲荷」が境内にあったことによるとも考えられます。神道を前面に出して、仏教を守る働きをしたのでしょう。ただ、「廃仏毇釈」の思想自体が短絡的で、軍部の浅知恵を表していますが、権力を握ると恐ろしいもので、相当のお寺を廃寺に追い込み、僧侶を強制的に還俗させています。「経塚稲荷」は蓮昌寺を権力から守った象徴的存在なのです。

7.鐘堂天井部の鐘をつり下げる部分

7.鐘堂天井部の鐘をつり下げる部分

 

写真⑧昭和16年 寺の鐘を武器等のため供出した時の写真(蓮昌寺のものではありません)

写真⑧昭和16年
寺の鐘を武器等のため供出した時の写真(蓮昌寺のものではありません)

 

鐘楼堂(鐘つき堂)

蓮昌寺には立派な鐘楼があります。私たちは「鐘つき堂」と呼んでいました。私が駒場に住み着いたころには、鐘楼堂はありましたが、鐘はありませんでした。戦争中に金属の供出で、出されてしまったのです。日常院首いわく「鉄砲の弾になってしまった」そうです。そのとき、写真⑥にあるよう荷車に乗せて供出しています。日常院首も運ぶのを手伝ったのですが、今の県庁の浦和駅よりの南北に走る通りの右の角から二件目にあたる空地に集められたそうです。他の寺からもたくさん集められていたのを記憶しておられます。お寺の鐘を弾にしなければならないようでは、敗戦は目に見えていたのでしょう。
鐘は昭和48年に新鋳されましたが、そのときに、写真⑦にある、鐘をつり下げる金具の天井裏から、日化師の長い文章が出てきたそうです。社会福祉に熱心で温厚な師にはめずらしく鐘を供出することへの批判が強い言葉で書かれていたそうです。日化師は、戦争の行方を見通しておられたようです。今は、静かにたたずんでいる鐘楼堂ですが、時代の運命にさらされた存在です。

 

以上で蓮昌寺特集は一旦終わります。しかし、蓮昌寺は駒場の歴史に大きな関係を持っています。後に機会があれば、また触れます。次回は、一丁目28番地にある「浦和ルーテル教会」について書きたいと思っています。