駒場の歴史・第二回

今回は、過去に記述されている駒場の歴史を追ってみたいと思います。

「駒場」を記述した文書で最初だと、確認されているのは、神田昌平坂学問所が編纂した『新編武蔵風土記稿』(1830年発刊)です。元禄10年ころ各地を管理するのに、全国を、郡ー領ー村に統一して管理しています。いろいろと経緯があったようですが、最終的には昌平坂学問所がまとめた『新編武蔵風土記稿』が、信頼される内容です。

その中から駒場を含む「中足立郡」の一部の領と、支配下の村をを抜き出してみると下記のようなところがあげられます。それぞれに「村」がつきますが、省略します。

〈浦和領〉浦和、岸、別所、白幡、根岸、辻、文蔵、大谷場、道祖土、元太
〈木崎領〉上・下木崎、針ヶ谷、駒場、瀬ヶ崎、領家、三室、原山、太田窪、大谷口、井沼方、円正寺、中尾、大牧
〈見沼領〉大門、附島、大間木、同新田、宮本新田、下山口新田
このほかに
〈南部領〉野田~間宮方面
〈植田領〉大久保~白鍬方面 などがありますが、ここでは省略します。

また〈浦和領〉「浦和」とは、「浦和宿」のことです。中山道に沿った宿場町で、今で見ると調の宮神社から浦和橋手前まで続いていたようで、宿場とその関連施設で1000軒余りがあったようです。
当時、「浦和」と言えば「浦和宿」を指しておりました。しかし、そのほかの村が、浦和の区画内に入っていたわけでありません。
駒場村は、太線で示したように〈木崎領〉に属していますが、いまの1丁目が中心で、2丁目は後に繰り入れられます。
この段階で「駒場村」という名前の所があり、住人が居たということは現在の住人として嬉しいことですね。
では、何軒ほどの家があり何人ほどの人が住んでいたのでしょう。推察することができる手がかりが二つあります。

一つは、今の駒場1丁目のサッカー場の近くの「駒場グランドハイツ」には、前耕地遺跡という遺跡がありました。ハイツの建設にともない1964年に発掘をしましたが、縄文式住居一基と弥生式住居が四基出土しています。そのころ人が住んでいたことになります。

二つ目は、この郡ー領ー村の構成は、形を変えますが、今の住居表示にも影響を及ぼしています。その節目の明治22年頃の都市制度改革の資料から、駒場村は、7戸36人であることがわかります。縄文時代から、おおむね、これくらいの人数で推移していたと思われます。それは、その地域での食糧事情を中心とする環境が、居住できる人数を決定するからです。

来月は、この前耕地遺跡を中心として当時の暮らしを見ていきたいと思います。

 

下の写真は、一枚は、浦和宿本陣跡の写真で、仲町1丁目の仲町公園のほぼ全体です。ここあたりが中心で、その南北に中山道に沿って宿場が並んでいたと思われます。。

浦和宿本陣

浦和宿本陣

浦和本陣

浦和本陣

市場通り

市場通り

もう一枚は、当時開かれていた二七の市の記念碑と売り子のブロンズ像で、仲町1丁目の常磐公園入り口にあります。夕方通りかかって目撃してびっくりした方もいると思います。

二七の市の銅像

二七の市の銅像