駒場の歴史3 前耕地遺跡

駒場1丁目の南方面、産業道路に架かった歩道橋の西登り口付近に五階建てで20棟ほどが入る「駒場グランドハイツ」がありますが、ここは、駒場の町のできあがりを解く上で、多くの秘密を宿している前耕地遺跡があったところです。
昔から駒場にお住まいの方は、ここが、お椀をかぶせたような丸い小高い山であったのをご記憶だと思います。「よろい塚」と呼び、古墳でもあるのではないかと思っておりましたが、そんな雰囲気を持った一種神聖な場所のような場所でした。
そんな遺跡が、昭和39年3月発掘調査が行われました。そこから、縄文中期の竪穴住居一基と弥生時代後期の住居跡四基が出土されました。今回は、それを手がかりに当時の人々(つまり駒場の先住民)がどんな生活をしていたかを推察してみたいと思います。
地勢的な位置から考えると、駒場は、下の地形図からみてもわかるように、大きな大宮台地があり、そこのから出ている舌状台地の先端部にあります。舌状台地は、人にとっては住み易いところです。なぜなら、海に近いし、なにより崖淵というのは、わき水がある所だからです。(駒場競技場入り口付近のわき水はその名残かもしれません。)今の産業道路を南に進むと、蓮昌寺あたりから下り坂になります。むかしはもっと強い下り坂でした。角度を変えて見ると、ブランシェラマンション、グランドハイツから、蓮昌寺、宇宙科学館までが崖の上で、その南側が低湿地だったことになります。
地質的には、表土は、今と同じ関東ローム層でした。関東ローム層は、火山灰が堆積したものです。植物との相性をみると、あまり良い関係にはありません。「武蔵野の雑木林」といわれますが、大木は生長せずに、せいぜい低木くらいしか生長できません。したがって、食料になる木の実とか小動物が豊富だったとは言えません。
海か川に面していたので、魚が豊富に獲れたかというと、魚の密度と捕獲の技術を考えると食料に足るほどの漁獲は得られなかったでしょう。
小規模の畑作や水田は弥生時代には行われていたようで、そこで、穀物や豆類の収穫は得られていたと考えられます。それらは、主食としてかなりの支えになっていたでしょう。
一方、当時の人の平均年齢は15才程度で20才まで生きるとかなりの高齢だったようです。ですから、お伽噺のおじいさん、おばあさんは20才ぐらいだったということになります。となると、いわゆる働き盛りの期間はそう長くはありませので、技術の蓄積も伝承もそれなりに遅々としたものだったのでしょう。また、人口は、記録にあるかぎりで文化・文政年間で5軒、明治9年で6軒、26人、明治23年で7軒、36人と確認されています。
住居は竪穴式住居が普通だったようです。間取りは一室で、面積は、大きくても6畳ぐらいですので、一軒あたり、4人から5人といわれています。祖父母、親、孫の3世帯住宅は希だったようです
そのような、住居が、前耕地遺跡以外に、あったとしても、2~3軒だったと考えられます。。
私たち駒場の祖先は、かなりつましい生活の中で、助け合いながら細々とですが、脈々と命をつないできたと言えます。それが、戦後のある時期から優良な住宅地として大きな発展を遂げます。

地形図

大宮台地を中心とした地形図に今の地名をあてはめた図(元町と太田窪の中間あたりの川沿いが駒場の地点)

竪穴式住居の骨組み(6畳ほどで、4~5人が平均的家族)

 

来月は、今は無くなっていますが、松林~ルーテル学院~ブランシェラ浦和駒場の歴史に迫ってみようと思います。