駒場の歴史4 松林→浦和ルーテル学院→ブランシェラ浦和駒場(駒場1丁目22番物語)

さいたま市、とくに浦和は文教都市と言われています。何をもって文教都市というのかはわかりませんが、賃貸物件やマンション販売の際に枕言葉のように使われているようです。たしかに、大学や高校の有名校が多く浦和にはあります。埼玉大学、浦和高校、浦和第一女子高校、市立浦和中学・高等学校があり、私立では浦和明の星女子中学・高等学校などの優秀な学校が多くがあります。そんな学校とは、一線を画していますが、少人数制の個性を重んじた教育で高い実績を残しているのが、かって駒場にあった浦和ルーテル学院です。今は、マンションのブランシエラ浦和駒場となっていますが、その敷地である浦和区駒場1丁目22番の変遷をみたいと思います。

駒場は、第二次世界大戦前までは、7世帯30人程度の人口を維持していました。台地の上でしたので肥沃な土地とは言えず、大部分が松林だったようです。その恵まれているとは言えない痩せた土地を7世帯の人々は身を粉にして開墾し、畑に変えていきます。

そんな人口の少ない駒場も、昭和25年ころの朝鮮特需で恩恵を受けた都心の企業に勤める人々の住宅地として人気が出てきます。爆発的に住宅化が進む中で、松林が残った一角が駒場1丁目22番でした。そこに聖望小学校の瀟洒な校舎が建ち、日曜学校も開かれます。

聖望学園の出発は、本太1丁目22番にある今にまでも受け継がれている「母の会幼稚園」に始まります。戦争直後から母親が主体の有志の方々が、良質な子供の施設をキリスト教的精神に基づく奉仕的な形で出発させ、正式な幼稚園となっていきます。

幼稚園の園児が学齢に達するころキリスト教精神に裏付けられた私立小学校の設立に向けて動き出します。土地探しから始めますが、そこで駒場1丁目22番と出会います。当時の所有者は瀬ヶ崎の武笠家でしたが、お母さん方の熱心な働きかけで、今のグランド通りよりの一部を売り渡してくれました。後に、武笠家は、残りの部分を公道を収容したうえで学園に譲渡してくれます。そこに3教室の白を基調とした木造校舎を建てて昭和28年に聖望小学校が開校します。一年生は4人で、職員の数の方が多いという出発でした。

 

昭和28年 開校時の浦和ルーテル学院(当時は聖望学院)手前の道路は今のグランド通り。松林で、傾斜した土地であったことが伺えます。

 

そこからは多くの努力が報われるかたちで、昭和33年には小学校6学年がそろい、やがて中学校・高等学校が開設されます。それに伴い、建物も次々に増設されていきます。学校外の施設では、荒川河川敷の羽根倉にグランドを持ち、駒場1丁目の中野邸に研修施設を開き、福島県に「山の上自然教育園」を持ち、充実した学園生活が過ごせる配慮が為されていきます。昭和49年校名が「聖望学園」から「浦和ルーテル学院」に改称されます。

 

浦和ルーテル学院(当時は聖望学院)の昭和40年代の空撮写真。周りの家の状況を見ることができます。(横切っている道がグランド通り)

 

移転前の正面玄関。ここに、スクールバスが横付けされていた光景が浮かびます。

 

平成26年、東日本大震災による耐震強度の規制強化がなされ、立て替えと移転の狭間で揺れ、結局は学校全体が緑区大崎に移転します。移転後は、グランドや研修施設も統合され、学園にとっても、大きな転機でしたが、学園は、一層の発展を遂げています。

跡地は、一括してマンション「ブランシエラ浦和駒場」となり、約150世帯の若い家族が中心に住むことになりました。

 

22番地に立ったマンション ブランシェラ浦和駒場の入り口部分。

 

いつの時代も駒場1丁目22番地は、駒場の先端となっております。

(今回の取材・写真収集にあたり、浦和ルーテル学院のご協力をいただきました。)

次回六月は、駒場の聖地蓮昌寺について調べます。一回では終わらないと思います。