駒場の歴史 第八回 連昌寺の公園

連昌寺には、当然のごとくに公園があります。また、蓮昌寺と言えば公園を思い浮かべる人が多いと思います。天気の良い日の昼間に訪ねるとお子さんを連れた家族の方が遊具で楽しんでいる風景を目にします。公園で遊ぶ年齢を過ぎた方は、夏の盆踊りで訪ねる方も多いと思います。近隣の小学校に通った方は、低学年時の遠足で訪れた方も多いと思います。存常院首(26代住職)の話しでは今も何組かの遠足が毎年訪れているそうです。遠足の集合写真で蓮昌寺公園の写真をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

その蓮昌寺公園の正式名所は「蓮昌寺児童遊園」となっています。ただ、市や自治体が運営・維持している公園ではありません。蓮昌寺さん個人の持ち物です。存常院首がボソッとつぶやいたのですが、維持にはかなりのお金がかかるようです。昨年の夏、駒場サッカー場沿いの木が道路にはみ出しているので刈ってくれという苦情が出たので刈ったところ、100万円あまりの費用がかかったそうです。同じように、周辺の木の手入れも定期的に行っているそうです。何より遊具に関しては、かなりの気を使っていらっしゃるようです。

そんなにまでして、なぜ、遊園地を維持しているのか、それには、先代住職(25代)明地院日化師の思いがあり、それを代々引き継いでいるからです。

児童遊園は昭和24年に開園されています。下の写真にあるのは、その開園式の様子をとったものです。
 

蓮昌寺公園完成時

蓮昌寺児童遊園開所式(昭和24年)

存常院首によると、開演の裏には、25代住職である明地院日化師の戦争体験があったいうことです。
日化師に招集礼状が届いたのは、昭和20年8月14日でした。ご承知のように、終戦の詔勅の玉音放送が行われたのが8月15日の正午でしたから、その前日になります。その間に日化師がどんなことを考えておられたかは、当時、10才ほどの存常院首にも、推し量れることはできなかったようですが、終戦の詔勅を聞いた日化師は、立ったままで、人目もはばからず声をあげて泣いたのを、印象深い記憶としてお持ちになっているそうです。この時点から存常院首によると、日化師の中に何かが芽生えたということです。ここから、自分としては、社会のために何ができるかを考え始めたようです。今で言うなら社会福祉的な思想をお持ちになったのでしょう。それが、戦後の新しい時代を担う子どもたちのために公園を作ろうということに結びつきます。
最初に多くの方に相談をし、協力を求めますが、周囲の人々の反応は冷たいものでした。市内の各企業を廻り寄付を募ったのですが、時代的な背景もあったと思いますが集まりが良くなかったそうです。ひどい人は売名行為だと言う人まででる始末でした。それでも日化師は呼びかけを続けていきますが、やがてその熱意が通じ、資金も集まり始め、最終的には60万円の資金が集まったそうです。物価指標から、当時(昭和24年)と今(平成30年)を比べますと、8.8の開きがありますので、60万円を今のお金にしますと、8.8倍になりますので、500万円位だと考えて良いでしょう。
その頃の公園用地は、墓地が散在している状態でした。昔からお住まいの方は、荒れた墓地の姿をご記憶の方もいらっしゃると思います。存常院首もまだ年少ではありましたが、当時の苦境を覚えていらっしゃって、整地作業にかなり苦労されたことを語ってくれました。とにかく江戸時代からの墓地ですので、土葬が基本で、上に公園を作るのですから、十分に堀りあげて、残留物があっては許されないわけです。今、盆踊りで利用させてもらったおりますが、その際に足下から正体の不明のものが出てきたら気持ちの良いものではないでしょう。当然、その点には気を使ったわけです。整地後、遊具をつくったのですが、私が記憶してる範囲では、ブランコ、雲梯、滑り台、鉄棒が強く記憶に残っています。ジャングルジムは、そんなに普及しておらず、無かったように思います。聖望学園(後のルーテル学院)が、庭に設置したのが最初のように思います。当時は、遊具を専門につくる会社などありませんので、通常の大工仕事をする人に作らせたと思います。ちなみに、今は強化プラスチックやステンレスで制作する専門会社があります。屋外用のジャッグルジムは、関西の某社だけで受注生産しており、値段ははステンレス製で、上物だけで60万円だそうです。そんな経緯で、作られていきますが、当然、募金で集められた60万円だけでは、資金不足で、蓮昌寺さんからの持ち出しもあったことは想像に難くありません。
それでも、昭和24年に開園式を行うことになります。開園式典の写真をお借りできましたので、下に掲載します。日化師は盛大に行いたかったようで写真のような大きな舞台まで作りました。芸能人を呼びたかったようですが、お金が無くて、呼ぶことができずに、当時、始まったばかりのNHKのどじまんコンクール(1946年「のど自慢素人音楽会」としてスタート)の埼玉県予選の入選者「床屋のえーちゃん」という人をを呼んでアコーデオン一本の演奏で歌ってもらったそうです。いろいろ調べたましたが「床屋のえーちゃん」の本名はシモカドエイジのようですが何者であるかや写真は見つかりませんでした。
当時、子どものころは、行儀良く決められた利用方法では遊んでおらず、雲梯の上を歩いたり、ぶらんこのやぐらの上に乗ったり、滑り台を逆から昇った経験はお持ちのことと思います。落ちて怪我をしたり、すりむいたりしたのは日常のことで、いちいち親に知られるのが、恥であるような感覚でした。私も、大きな切り傷を負い、親に隠していたのですが、膿で腫れ上がって、医師にかかり、手術にまで至ったことがありました。蓮昌寺公園には、楽しい想い出もたくさん残っていますが、痛かったり、苦い想い出もいっぱい残っており、北側の杉林、中央にあった井戸などがなつかしく思い浮かんできます。
遊具のこともそうですが、中央部分は、遊具はなく低い草が生えていましたが、そこでの野球にも大きな想い出があります。人数がそろわないときは、三角ベースになりました。おわかりかと思いますが、一塁、二塁とホームベースで三角になりますのでこう読んでいました。駒場には、小学校も中学校もありませんので、本太、元町、領家の仲間たちとも親しく野球をやっていました。駒場の子どもの何よりの自慢は、日化師が買ってくれた野球道具があったことです。私の仲間には、お墓が蓮昌寺に無いのに寄進は欠かさずする人がいますが、彼は「寄進をしているのではなく、子どもの時にいただいた野球道具などのお礼をしているだけだ。」と言っています。日化師の奉仕精神は、70年以上たった今でも生きて、引き継がれています。
存常院首の話しで、もうひとつ印象に残ったことがありました。それは、1945年3月から4月のころ、東京は大空襲に襲われていた時期のことです。今は、蓮昌寺から、東京方面は見渡せませんが、当時は、高い建物も無く見通せたようです。存常院首の正直な感想は東京の当事者のことを考えたら申しわけないですが「東京の夜の空は真っ赤に燃えて綺麗だった」の一言でした。この「綺麗だった」という感想は、他の何人ものお年寄りからもうかがいました。長い過酷な戦争の中で、深い喪失感が充満した中で来るときが来たと感じたのか、こんな感想になったと思われます。私は、大学で戦後史を専門としていましたが、最後まで竹槍で本土決戦をするんだと騒いでいた当時の軍部の無知にはあきれるばかりです。国民の命など見向きもせず、ただ、自分たちのメンツだけで戦っていたわけです。そんな中でも、蓮昌寺は280年の静けさを保っていました。その象徴が児童遊園なおではないかと思われます。
次回は、蓮昌寺内の建物について紹介します。

 

鉄棒 昔は色が塗ってなく、もっと森沿いにありました。

鉄棒 昔は色が塗ってなく、もっと森沿いにありました。

 

遊具、木馬

遊具、木馬

 

木製の渡り橋と雲梯 昔は、金属部分も木製でした。

 

公園北部分の檜の森。天然ではなく、遊具の材料の為に松林したのでしょうか?100年近い樹齢です。

公園北部分の檜の森。天然ではなく、遊具の材料の為に松林したのでしょうか?100年近い樹齢です。