駒場の歴史 第14回 駒場サッカー場

今回は、駒場2丁目の駒場サッカー場について調べてみました。競技場全体は、さいたま市の持ち物で「さいたま市駒場競技場」が正式名称です。しかし、2012から財政上の理由から命名権を売却し、浦和レッドダイヤモンズ株式会社が買い取り、メインスタジアムを「浦和駒場スタジアム」とし、人工芝のサブグラウンドを「レッズハートフルフィールド駒場」としました。命名権を買い取りながら、レッズ名が入っていないのは疑問に思えますが、そのへんのいきさつは後に触れたいと思います。照明塔は、メインスタジアムが4基、サブが6基あります。広い競技場の方が少ない数ですが、一基あたりの電球の数が違います。

浦和駒場スタジアム(レッズのトップチームのJリーグの試合中と思われます。)

浦和駒場スタジアム(レッズのトップチームのJリーグの試合中と思われます。)

レッズハートフルフィールド(補助競技場)

レッズハートフルフィールド(補助競技場)

「駒場スタジアム」の出発は、1967年の第22回埼玉国体のサッカー会場のためででした。建設前の当地は、蓮昌寺さんからご提供いただいためずらしい写真にうつっていました。今の蓮昌寺公園から南側の風景を撮ったもので、一面の湿地が広がっていることがわかりました。
1962年に産業道路が開通しているのですが、その写真では写っていなかったので1950年代後半頃の写真だと思います。私が駒場に居住したのが1952年頃なので、この辺には釣りに来ていました。湿地の中程に小さな池があり、小鮒がよく釣れたのを覚えています。ただ、釣果の中心はアメリカザリガニでした。15cmを越える大きさで、鮮やかな赤いザリガニを戦後の日本を統治した連合国最高司令官の名を使ってマッカッサーと呼んで自慢しあったものです。また、今の宇宙科学センターの所が当時の浦和市の火葬場でしたが、池がそこの火葬後で出る灰の捨て場になっていたので、白い小さな骨片が多数ありました。今では考えられないことです。湿地であったころの面影が今でも残っています。蓮昌寺公園でした野球とともに、忘れられない想い出です。
運動公園に入ってすぐの所にある駒場湧水池です。今は水が涸れていますが、時々は水があふれます。(写真下)

駒場湧水池

駒場湧水池

話しをもとにもどしまして、1967年の埼玉国体のために作られたサッカーフィールドは、観覧席が5000席ですので今のメインスタンドの下部分だけでしたが、芝は敷いてありました。というか、人工芝が無い時代ですので、砂埃を回避するには、芝の種を撒くしかなかったのです。芝のグランドというと贅沢に思われますが、砂埃で相当の土がとばされますので芝の方が維持が楽になります。学校の仕事でグランドキーパーの担当でしたが、一年で大型ダンプトラック5台分を補給しないと窪地が目立つくらいになります。結局は、芝の種を撒いた方が長い目で見ると安くあがりますので、芝のグランドにしました。同時に近所からの砂塵の苦情もなくなりました。
1992年に陸上用のトラックが増設されます。1993年になりますと、Jリーグの開催とともに、その基準にあわせるために、バック席を作り、改築を重ねて21000人収容の今の形になります。この年から浦和レッズのホームスタジアムになりました。そのいきさつは、後の浦和レッズ編で述べます。
施設面でのいくつかに触れと思います。一つ目は通称「出島」と言われる西側にあるアウエイ用の1000席程度の席です。Jリーグ開幕当初からレッズサポーターは熱いことでは他チームには劣りません。そのためアウエイチームとレッズサポーターを近い席にすると不測の事態が起こりかねないので分離する意味で作られた席です。この「出島」が満杯にならないので、収容人員21000人の有料観戦者を越えませんでした。しかし、1995年9月9日の磐田戦で21500を越え(正式人数は発表されていめせんが。)、駒場スタジアム記録を作り、今まで破られていません。

「出島」(アウェイ応援席)と電光掲示板「出島」(アウェイ応援席)と電光掲示板

「出島」とレッズサイドの席の間にあるのが電光掲示板です。最初は、文字通りの電光掲示板で、点数と出場選手名のみを掲示するものでしたが、2000年代の改装の機会に映像も取り込めるオーロラビジョンと言われるものに入れ替えられました。今ではどこも普通に二面ありますが、映像取り込みのビジョンを持っている競技場はそんなにありません。ちなみに、お隣の大宮アルディージャのホームであるナック5スタジアムは今でも電光掲示板です。
駒場スタジアムは目に見えないことで、特別な箇所があります。2002年陸上競技場が非公認になります。地盤の悪さから、トラックの東と西で19.5cmの高低差が見つかったため非公認になります。このままですと駒場競技場で出した記録は公認されなくなりますので、中学生や高校生の大会のさいたま市予選も開けなくなりました。さいたま市予選を上尾競技場で開催しなくてはならない事態になったわけですが、お金持ちではないさいたま市はすぐには改装をできませんでしたが、2010年に改装に着手されます。お金のない分、知恵を出しました。地盤改良をしないで沈下を防ぐ方法として、トラック西側付近にコンクリートパイプを打ち込む工法をとりました。パイプで支えられた陸上競技場は大変めずらしいと言えます。

命名権

浦和駒場スタジアム

浦和駒場スタジアム

今の駒場競技場の名称は、上の写真にあるように、「浦和駒場スタジアム」と言いますが、これは2012年からです。当時さいたま市は財政難から、スタジアムの命名権を売却し、スタジアム運営の費用に充てることにします。維持費だけでも年間で、サイタマスタジアム2002を含めると5億円と言われていますが、少しでも費用を捻出したかったと思われます。命名権が公売に出されたわけですが、私たちもどきどきしながらことの状況を見ていました。「味の素スタジアム」、「日産スタジアム」のように当然企業名が入ると思われたからです。三菱が権利をとる可能性が高いので、「三菱○○」と付くのだけは勘弁してほしかったのです。余談ですが、レッズサポーターの中に三菱嫌いが相当数いるようです。最終的には、「浦和レッズダイヤモンズ株式会社」という浦和レッズの運営会社が落札しました。ご存じのように浦和レッズは、三菱が出費をしてますが独立した会社ですので、三菱ではありません。いろいろアンケートをとったりしながら検討し、「浦和駒場スタジアム」となったわけです。「レッズ」や「三菱」を入れなかったのは、当事者の賢明な判断だったと言わざるをえません。ただ年間総予算が60億円強の「浦和レッズダイヤモンズ株式会社」にとって、事実上21000枚しか発券できず、公式戦を入れられない上に企業名が入らないスタジアムの命名権を保持するのは、大きな負担としか言えませんのでありがたいことです。
まだまだ書きたいことはあります。福田正博の涙のVゴールでJ2に陥落したのも、土橋正樹の左足で(利き足は右)左サイドからのミドルシュートでJ1に復帰したのも舞台は駒場サッカー場でした。事件もたくさんありました。レッズの選手もサポーターも関係者も皆が駒場を「聖地」と呼ぶのはそんなことがあるからだと感じます。
ちなみに、競技場の使用料は、メインスタジアムが一日で、10150円、サブが約2000円です。照明は、点灯するだけで、108000円かかります。当然のことながら、個人には貸し出されません。ちょっとトラックを走ってみたい方には、団体が使用していない時に、1時間50円でグランドの感触を味わえたり、フィールドからの観覧席を見上げることができます。事前予約等はいりませんが、当日解放しているかどうかは、事前に問い合わせた方が良いと思います。靴は運動用であることは当然です。

次は、駒場の中心を縦断している「産業道路」を中心に、駒場の交通事情について考えてみます。