駒場の歴史_第15回産業道路(駒場の交通事情の歴史)

駒場の中央には、大幹線道路である産業道路が走っています。東京から高崎方面へ通行する人にとっては、大きな役割をしている道路です。私も大学生時代に東京神田の商店で運転手のアルバイトをしていましたが、宇都宮方面へ行くときは、もっぱら産業道路を使っていましたのでなじみのある道路です。仲間の運転手の連中も、2トン車までは産業道路を使用していました。

「産業道路」は一般名詞で、主に貨物輸送に供される日本の道路の通称です。したがって、日本全国ですと、100に近い産業道路があります。埼玉県内にも、五つあります。駒場を通っている産業道路の正式な名称は、「埼玉県道35号川口上尾線」と名付けられています。名称のとおり、川口市幸町の川口陸橋下交差点から、上尾市日の出交差点までを結んでいます。

産業道路の起点_川口陸橋

産業道路の起点_川口陸橋

産業道路の終点_上尾日の出交差点

産業道路の終点_上尾日の出交差点

産業道路の誕生は、中山道にあります。人が歩く旅をしていた時から、馬車になり、自動車になり、大型車の普及にともない、道の主役の座が中山道→17号国道→産業道路となり次に新大宮バイパス→第二産業道路と引き継がれていきます。

中山道 江戸の五街道

1601年、徳川家康が関ヶ原の戦いで、覇権をとりつつある中、家康は支配力の強化を画策し始めます。その一環が江戸から各地を目指す街道の整備です。道路の整備、宿場の建設、通信手段である伝馬の確立、旅の案内となる一里塚を設けたり路面に砂利などを敷いたり松並木などを作るなどの快適性を確保する事業を行った。これらを沿道の各藩に行わせることにより、各藩の財政を使わせると同時に、参勤交代等の制度をつくり、徳川家はその支配力を増していく。結果として、二代将軍秀忠の時代に江戸の五街道が定まる。それらは、東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道で、その起点はいずれも日本橋であった。現在では、下のような起点の標が舗道上に埋め込まれている

日本橋の道路起点標

日本橋の道路起点標

中山道は日本橋から北にゆく奥州街道、日光街道と浅草橋で分かれている。第一宿場は板橋宿です。東海道が海岸沿いに江戸と京都を結んでいたが、中山道は内陸経由で、江戸と京都三条大橋を結んでいる。

時代は明治に入り、新政府が樹立されると、さいたま市内の国道は、東京から中山道を経由して新潟に抜ける路線に力が入れられます。日本軍が満州方面へ進行するにしたがって新潟港から満州方面への軍備や物資の運搬が重要視されるようになり、国策としてその路線に沿ったトラック輸送の道路が整備されます。そのため、道路は舗装されかなりの強度が必要になります。当時は、現在のアスファルト舗装では表層5cm程がアスファルトと砂利の混合物でその下数十センチは、砂や小砂利を敷き詰め、固めたものであり、その部分が重要になります。東京から新潟間の道路も重い加重に耐える必要があることから、石や砂が主体となって舗装されたものでした。当時の日本としては技術と資金を最大限に投入したものでありました。1934年三国峠を越す路線が当時の内務省直轄の国道17号線のルートで強化されます。さらに1940年ころから本格的な工事が行われますが、第二次世界大戦により中断され、戦後復興の必要から三国峠越えのルートがクロソイド曲線(車がカーブに入りやすいように、わずかに反対側にハンドルを切るように設計された道路の曲線)が考案されたことにより飛躍的に発達します。当時、1950年初等に私は17号国道の端に住んでいたが「新国道」と呼んで誇りに思ったものです。なにより自動車が走っても振動がしないことに驚きました。今から考えると振動はしていたのだがそれまでの振動にくらべると想像もできないくらい低振動であったのでそう思ったのでしょう。ちなみにその家屋は平屋建てで、道路と同レベルのたかさであったので、振動がしないはずが無いので、子ども心に自動車が走っているのを見るだけで、誇らしく満足をしていたように思っていて振動は記憶に残っていないのでしょう。その17号国道(新国道)もモータリゼーションの発達により改造を重ねますが、自動車(主にトラック)の増加には対応できずバイパスが作られます。それが「産業道路」なのです。だから産業道路は最初から産業のために作られた道路なのです。この頃まで、道路は、対向一車線が普通でした。

産業道路の工事は、着工が1941年(昭和16年)と早かったのですが、開通は1962年になりました。太平洋戦争で大幅に時間がかかったためです。駒場に関わった箇所では、原山交差点から、駒場競技場までの切り通しの区間が時間と労力がかかったようです。蓮昌寺の中島住職によると開通の時には、新しい道路ができたという感慨が実感されたそうです。

私も産業道路には、多くの想い出があります。6年間、駒場の家から木崎小学校まで歩いて通ったからです。そのころ駒場から木崎小学校に通っていたのは、私一人でした。次の学年から本太小学校の学区に編入されました。昭和20年生まれの学年は、太平洋戦争の影響で、男が出征したので、最小の人数でした。逆に21年からはどっと兵士が復員しますますので、頑張ったためか生徒も急増します。そのため、私の学年はいろんな場面で軽視されがちで、教科書無料化などの福利の恩恵にもあずかっていません。木崎小学校に通っていたころの産業道路は十分な舗装がされていないので車が通れば砂塵が舞いましたが、車の数が多くはなかったのであまり苦労とは感じていませんでした。印象に残っているのは、乗り合いバスの全盛時代で、駒場から木崎小学校には北浦和からグランド通り経由と本中通り経由で与野に行く二つの系統がありました。父親が、召集されており、終戦時にはソ連の捕虜とされ、バイカル湖付近まで連れていかれていたので復員まで3年かかっているので、貧乏な我が家では、バスで通学などはさせてもらえず、バスに乗ることは一種のあこがれでした。小学校時バス通学をしている友人はよくいじめたものです。小学校ではかなりの問題児でした。それが、中・高一貫校の教師になったのですからわからないものです。私が中学2年のとき、産業道路は完成します。当時、本中ではバスケット部でしたので、今のテニスコートの北の端にバスケットコートがあり、そこから産業道路の舗装工事を見ていて「何で俺が小学校に通っていたときに完成しなかった」のかと恨めしく思いました。高校も産業道路を歩いて通学する位置にありました。舗装はされていましたが、歩道も無く、ガードレールもありませんでしたので、大型トラックが横をビュウビュウ通り、かなりの恐怖で、本中の南側から裏通りに入って通っていました。産業道路は、私の想い出の中に多くのものを残していますが、あまり良いイメージはありません。わずかな懐かしい想い出の中に、産業道路と浦高通りが交差した交差点を東に入った二件目がオモチャと本を売っている店があります。雑誌「少年」の付録が楽しみでおじさんが、仕入れてくるのを店の前で待っていました。あのおじさんの自転車姿が想い浮かびます。余談ですが、そのお孫さんを高校で教えることになったのも何かの運命的なものを感じます。何となく恥ずかしくて生徒本人には言い出せませんでした。

産業道路は、車両用の道路から生活道路の役割が大きくなりガードレールがつけられます。沿線の人口が急激に増えた関係で、産業道路の歩行者と自転車が増えたからです。大型トラックにとっては走りにくくなります。そのころ、相変わらずの貧乏学生だった私は、大型免許をとって学費を稼いでいたので、トラック運転手の私にとって産業道路は走りにくかったのを覚えています。それもあってか1770年に新大宮バイパスが通り、2007年第二産業道路が完成します。大型車両は、そちらを利用するようになります。

中山道、17号国道、新大宮バイパスの違いは、下のそれぞれ2枚の写真を見ていただければ分かると想います。中山道は生活道路で、車を中心に作られているのが新大宮バイパスで、その中間になってしまったのが、17号国道です。

中山道_さいたま市_白幡付近_焼米坂(大宮方向)

中山道_さいたま市_白幡付近_焼米坂(大宮方向)

中山道_さいたま市_浦和付近_伝統の酒井甚四郎商店(明治元年創業)

中山道_さいたま市_浦和付近_伝統の酒井甚四郎商店(明治元年創業)

国道17号_さいたま市_戸田付近(大宮方向)

国道17号_さいたま市_戸田付近(大宮方向)

国道17号_さいたま市_大成付近(熊谷方向)

国道17号_さいたま市_大成付近(熊谷方向)

新大宮バイパス起点・東京都練馬北町八丁目交差点

新大宮バイパス起点・東京都練馬北町八丁目交差点

新大宮バイパス_さいたま市西区三橋付近(上尾方面)

新大宮バイパス_さいたま市西区三橋付近(上尾方面)

通常の連載はこれで終わりとし、次回は、番外編として駒場生まれの浦和レッズを依怙贔屓と偏見で2回にわたり書きたいと想います。